2003.7.17 武田 一夫
大学4年のとき雪氷研究を垣間見る機会はあったが、凍上という言葉も知らないまま、周囲の人と違った凍土の研究を私は選び、大学院を受験して木下研究室の門をたたいた。そして、大学院の5年間、北大低温科学研究所・凍上学部門でお世話になり、木下誠一教授・鈴木義男助教授・堀口薫助手・福田正己助手の4名の教官に対して、しばらくは井上正則さんと私の学生2名であった。その後、石崎武志さん・伊豆田久雄さんの学生2名が加わり、恵まれた研究環境にあった。当時の凍上部門の院生は、国内がLNG地下タンク建設のブ−ムにわき、頻繁に凍上の研究会が行われ、他の雪氷関連部門の院生に比べて企業の研究者と交流する機会がはるかに多かった。卒業後実社会に出てからも、学会全国大会、学会の委員会や分科会で凍上研究を通して、多くの研究者と今なお親しく付き合える裏には、木下先生の人望抜きには語れない。また、木下先生がアラスカ・シベリアなどの海外学術調査を積極的に行ってこられたこともあり、外国との交流も多かった。1980年木下先生が実行委員長を務められたISGF'80(地盤凍結国際会議、於:札幌)では、初めて国際会議を体験させてもらい、地球の裏側にも自分と同じ研究をしている仲間がいることを実感した。
当時の木下研究室は、今とは随分実情が違うと思うが、ひとことで言えば現場主義であった。大学院の修士課程では、毎週決まってあるのは、研究室での凍上ゼミとロシア語ゼミくらいであった。それ以外は、低温研大学院生の雑誌会と不定期に談話会(低温研教官や所外の研究者による講演会)くらいで、授業はないに等しかった。低温研では、大学院生に修論の研究テ−マは与えられるものの、好きなことを好きなようにおやりと言わんばかりの放任状態であった。すなわち、学生自ら実験やフィ−ルドワ−クの機会を求めて行き、試行錯誤しながら勉強する環境にあった。言い換えれば、今と比べたら大学院生向けのカリキュラムはお粗末この上なかった。しかし、このことが自分で問題を見つけ、研究テ−マを捜し出す習慣を身につけさせてくれ、今から思うとよかったかもしれない。
冬の凍上学部門は違った。毎週のように、北大農学部苫小牧演習林内にある凍上観測室へ凍上観測に連れて行かれた。しかも、泊りがけが多かった。夜は酒を飲みながら、先生の話を聴いたり、議論したり、正に合宿・研修が頻繁に行われた。酒の強い木下先生は1升飲んでもくずれない、それが3日間続き、本当に強いと言える人であった。院生も、思ったことをどんどん言える環境にあった。その中で、木下先生からよく聴かされたことは、
(1)人と違ったことをやれ!
(2)現象を自分の目でみろ!
(3)自分はいつも喧嘩の仲裁をしている、じっと耐えれ!
ということであった。
「人と違ったことをする」は、元々私も同じ考えであったことから、非常に共感するところであった。研究でも人のやらないオリジナリティを追及することを奨励する人物が身近にいることは、何といっても心強かった。
「現象を自分の目でみろ」は、苫小牧の凍上観測室にあれだけ通い詰めれば、否が応でもそうならざるを得ない。
私にとって最も勉強になったのは、Bであった。長男として多い兄弟を取り仕切ってこられた先生は、その手腕が低温研の研究者組織を統率するのに、存分に発揮されたことと思う。おそらく、歴代の所長の中でも、すんなり所長に納まる器の持ち主であったであろう。人一倍苦労されてはいるが、人を扱うことが巧みであった。長年そばで、そういう姿を拝見していると、こうした場合に、木下先生はこういう風に言われ、実行されるであろうということが、察せられた。じっと我慢して、言うべきところはいい、問題から逃げない姿勢は、尊敬に値した。
血気盛んな20代に、色んな面で実学を学ぶことができた。木下先生から得たもの、考え方は、今でも強く私の中に生き続け、大きな影響力を持っている。研究室の机に向かって論文を読んでいると、毎日決まって入ってこられる木下先生から、「やや!武田君遊んでいるか?」(その裏には、手を動かせ、体を動かせ、目でみろ!論文なんか読んでいる暇ないだろう!)と、今でも声をかけられそうである。
いつまでも、私たちを見守ってほしい。
そして、先生にお礼を言いたい。
どうぞ、やすらかに。
木下先生。