雪氷65巻4号(2003)より転載
北海道旭川西高等学校 平松和彦
木下先生には、ずいぶんお酒をご馳走になりました。ある晩、最終列車に間に合うよう、お先に失礼させていただいたのですが、酔いのおかげですっかり眠り込んでしまい、気がついたときは旭川を過ぎていました。結局上川駅で網走発札幌着の特急に乗り換えて、明け方ようやく旭川に帰って来たという笑い話もあります。事あるごとに「ヒラマツ君も、一杯行こう」と声をかけてくださり、お店に入ると「まず、ビール!」と元気よく注文されました。北大で催しがあったときは、低温科学研究所に近い「清田」、都心での会合のあとは、「鳥っぺ」でした。
先生は私のような大学を卒業してから雪氷学会に入れていただいた者や、民間企業や、北大以外の研究者も同じように暖かく迎えてくださって、先生のご好意に対して、本当に感謝している会員も多いのではないかと思います。
私は1982年に士別高校に赴任し、「寒さ」をテーマに何かできないかと考えて、低温科学研究所の門を叩きました。厳冬期は-30℃にもなる士別の土壌凍結の調査を生徒たちと始め、凍土分科会に入れていただきました。1989年2月に北海道支部の講演会が士別市で開催された時は、ちょうど幹事長が福田正己先生で、私は市と学会の間の連絡役を仰せつかりました。当日、200人の聴衆の前で、トヨタ自動車の寒冷地試験の様子がビデオ映像で紹介され、「木下式硬度計」を使っているシーンが大きく映し出されました。
木下先生もご来賓として紹介された直後でしたので、会場が沸きました。先生はいつもの照れくさい表情を浮かべながらも、うれしそうでした。また夜の懇親会で、先生のお人柄に触れた士別の人にも、ファンができました。
1995年3月、ヤクーツクで開催された永久凍土に関するシンポジウムには、日本から総勢21名が参加しました。70歳を過ぎておられた木下先生も同行されて、ピンゴの前では、先生を囲んで代わるがわる記念撮影をしました。私もカメラを向けましたが、先生は本を口にくわえて、バッグの申の手袋を探しておられるようでした。よく見ると、くわえておられたのは、ご著書『永久凍土』(古今書院刊)だったので、微笑ましく思ったものです。旅行中、みんな先生のお部屋に集まっては、夜が更けるまで歓談しました。先生も実に楽しそうでした。
先生は大学をご卒業後、短期問ながら小樽で学校の先生をされていたことがあり、私のように小さな町で教えていた者にも、目にかけてくださったのだと思います。先生からうかがうお話は、いつも大きな励みになりましたので、思い返しては感謝しております。
この追悼文の依頼は、スイスの列車の中で佐藤篤司さん(前編集委員長)からお受けしました。先生の思い出話に花が咲いていた時、絶妙のタイミングで車内販売のワゴンが通りましたので、缶ビールで「木下先生に乾杯!」しました。
声が届いたでしょうか、先生。
天国で心おきなくウオッカやお酒のグラスを傾けてください。