雪氷65巻4号(2003)より転載
北海道立オホーツク流氷科学センター 青田昌秋
木下先生は北大退官以降昨年までずっと道立オホーツク流氷科学センター所長を勤められた。所長退任後も理事としてご指導をいただいた。この3月はじめ、理事会出席のために紋別にお出でになり、拙宅にお立ち寄りいただいた。身体のご不自由な奥様のことを非常に気遣っておられた。俺が死んだ後が心配だと冗談めかしながら語られていた。先生ご自身の体調も良くなく、どこか寂しい感じがした。
4年程前か、手術のために入院された。夏の暑い日だった。病室に居られないので、きょろきょろしていると廊下の端の窓際から、青田君ここだ、ここだ!と声が掛かった。浴衣に団扇という格好の先生だった。どうされましたと訊くと、ああ、ただのドブ(大腸のこと)掃除だよといつものように首をくすめて笑われた。後でわかったことだが、そこからの転移とのこと、残念でしかたがない。
昭和58年、当時低温研所長だった木下先生のお供をしてアラスカ大学を表敬訪問、同大・地球物理学研究所、海洋研究所合同の会合をもった。私の流氷研究施設長就任を紹介した後、先生は外交辞令的にオホーツク海の流氷についても共同研究をやろうと一言付け加えられた。
アラスカ大グループはこの一言を真に受けた。それでは2年半後の流氷期に紋別でシンポジウムをやろうじゃないかと逆に提案されるはめになった。先生は『That'sagoodidea』と気楽に応じられた。使い走りぐらいが私の任務だろうと、のんきでいたら2年が過ぎていた。その頃のことである。先生にお会いしたとき、アラスカ大との約束はどうなりますかねと訊ねた。先生は、そうだったなー、青田君、まあ頑張ってくれよといってポンと肩を叩かれた。
それからが大変だった。ボランティア、市、企業の協力でやっと実現に近づいたが経費はまだ足りなかった。先生は任せっきりのような顔をしながらも、じっと見守っていておられたのだ。会場費は用意した大丈夫だ、低温研の職員も応援に連れて行くよといって下さった。済んでから、いつもの大好きな日本酒をもってきて、ご苦労さん、よくやったねとコップ酒をいただいた。悲しくも、懐かしい想い出となってしまった。
祭壇にはあの時と同じ笑顔の先生の写真があった。突然のことで、ずっと信じられなかった。いつものように、うう・・青田君と声を掛けられるような気がしてならなかった。藤野葬儀委員長のご配慮で火葬場までお供させていただいた。先生のお骨を拾いながらようやく先生のご逝去を実感して涙が溢れ出た。今は、公私ともにお力添えいただいた先生のご冥福と奥様の早々のご快復を祈るのみである。